どれくらい前からかはわからない。ただ、ここ数日変な夢ばかり見るようになっていた。



ぽつぽつと、雨のように黒いものが落ちていき、そしてそれがさらに広がっていく夢。その雨はやがて自分の夢を真っ黒に染めた。

そのとき、それを打ち破るように赤い光が貫いた。赤い、赤い、竜の紋章。







「・・・はぁ、はぁ・・・」

気づいたとき、黒髪を持つ若き青年ラフィス・クロードノアは自分の布団の上にいた。なぜか毎日瞳を閉じるたびに現れる同じ映像。悪夢のようなその夢は、

ラフィスをどっと疲れさせて、目覚めるたびに彼は肩で息をしていた。

「くそ・・・胸クソ悪い夢だ・・・」

ラフィスは息を整え、ベッドから立ち上がる。やっと日の光が差し込めてきたくらいの時間なので、町も静まり返り人気もない。

水をためてある甕までまっすぐに歩いて、中にある水をコップで満杯まで注いで一気に飲み干した。

一息ついたところで、彼は水甕の中にいる、未だ汗だらだらである自分自身と目が合った。そんな姿が情けなく思い、水に映る自身をぱしゃんと叩いた。

彼は一人暮らしだ。もとは両親とも暮らしていたのだが、この時代ではヒトの平均寿命は短く、彼が16歳のときに死別した。

それから先は、ずっと一人で暮らしている。

彼の父はこの町で小さな道場を営んでいた。斧の使い手だった。そこそこの腕と人々からは評判だった。ラフィスはその道場の跡を継ぐことはしなかった。

いや、まだ若くて師範にはなれなかった。彼は師範代だ。師範は父の時代の一番弟子に任せてある。

彼は身支度を整えて、壁一つ離れたところにある道場の間へ向かう。

がらんとした道場。門下生や師範ががくるまでには時間がある。

ラフィスは壁に立てかけられた練習用の短い斧を手に取り、スッと構える。目を閉じて、心を鎮めて・・・。

そして目を開いて、先を見据えた。



と、そのときだった。目の前に見知らぬ女が一人。こちらを、微笑みながら見ているではないか。



ラフィスは訝しげにその女をみた。門下生ではない。しかも、どうみても不思議な格好をした女だ。

額には赤い宝石がついているし、格好だって踊り子のようでこの場には不似合い。

そして何よりも、道場に入ってきた気配すら感じなかった。あんなにも精神を統一していたのに、だ。

「誰だ?」

ラフィスはその女を睨んだまま、問いかける。

「私?私はフェーンフィート。・・・ねぇ、あなた。この紋章に見覚えある?」

フェーンフィートと名乗ったその女は、腕輪で隠していた竜の刻印をラフィスに見せる。ラフィスは驚いた。

夢見でみた紋様そのままであったから。紋様とフェーンフィートの顔を交互に見つめて、「あぁ」と頷いた。

ラフィスが頷いたのを確認するや否や、フェーンフィートの凛とした顔が一片して輝き始めた。

「うそ!?本当に!?よかったぁ!人違いだったらどうしようかと思ってて・・・。あ、ということはあなたがラフィス・クロードノアでいいのよね!!」

端を切り落としたようにペラペラと話し始めたフェーンフィートに引きつつも、ラフィスは睨みを止めない。

「あぁ、オレは確かにラフィスだが・・・お前は何者だ?」

「私は使者。・・・手短に話すから、さっさと聞いてね」

フェーンフィートは有無を言わさず、ラフィスの前まで近づき、そして口を開いた。

「手っ取り早く言うと、あなたに闇というものを追い払ってほしいの。まだ抽象的なもので私自身もよくわからないんだけど。じゃないと、世界が滅んじゃうんだって!」

「・・・お前、頭おかしいんじゃないのか?医者ならこの町にもいるからさっさと行って来い」

ラフィスは息をついた。彼女のバカバカしい話には付き合っていられないといった感じだ。

「嘘じゃないわよう。本当なのよ」

そんな彼に不満たらたらなフェーンフィート。だが、

「そんな話、誰が信じると思う?大体、お前は何者なんだ?どうしてオレにそんなことを言い始めた?」

ラフィスの言葉に対抗できずに、口を噤む。

「・・・あなたが信用できる人間かどうか、わからないとこちらのことは話せないわ・・・」

「何も話さない奴を信用しろとお前は言うのか?」

「・・・一理あるわね」

うーんとうなるフェーンフィート。どこが一理だ、とラフィスは心の中で呟いた。

「じゃあ・・・あなたが絶大な信頼をおける人物だとしてすべてを話すわ。・・・でも他言無用よ?もしも誰かにしゃべったら・・・その口、二度と開けなくしてやるから」

後半からフェーンフィートの声が一気にどす黒いものへ変わった。目からして本気だ。ラフィスは怯みながらも「あぁ」と小さく答えると

「私は神の島ラクシアスランドから来た竜の化身よ。神から、この国が闇の力で侵食されるのをきいて世界を救うためにここにきたの。

・・・そして、その闇を追い払う人間として選ばれたのが・・・あなた」

フェーンフィートは、すっとラフィスを指差す。ラフィスは目を白黒させて、フェーンフィートを見つめ返す。

「・・・お前・・・やっぱり、医者に行ったほうが・・・」

さすがのラフィスも突然「神」などと言われたら焦る。そして本気でフェーンフィートの頭を疑った。

「もう!まだ信じてくれないの?」

フェーンフィートが地団太を踏んだそのとき、ドアのほうで人の声がした。門下生だ。

「・・・そろそろ道場の開く時間だ」

ラフィスは、練習用の斧を壁に立てかけると出ていってくれといわんばかりにフェーンフィートを睨んだ。

「わかったわよー。今日のところはこれで帰るけど、また来るからね。じゃあね♪」

フェーンフィートは道場の窓から軽やかに外に飛び出ていった。荒らしが去ったあとのようだ。ラフィスはため息をついてドアのほうへ視線を向けた。











とても不思議な女だった。

格好も、性格もかわっていたけど何よりもまとっているオーラがとても変わっている。

道場が終わって、門下生が帰ったあとの彼の家。彼はもう道場ではなく部屋にいた。

ベッドに腰掛け、窓から見える月を見上げていた。

このまま寝る気にもならない。きっとまた胸クソ悪い夢を見るだろうから。

そう考えたとき、辺りの空気がかわった。冷たい、ピリピリとした空気が張り詰めている。

ラフィスもただ事ではない、とベッドから体を起こしたそのとき



ズガァッ



彼の部屋の壁が突然吹っ飛ばされた。

「な・・・!?」

ラフィスは、急いで傍に掛けてある自分の斧を掴み、その方向に構えをとった。

ここは町だ。なぜこんなことが起きたんだ?この殺気はなんだ?

ラフィスの警戒はさらに増して行く。

そしてその家の破れた壁から現れたのは、見たこともない巨大な怪物だった。モンスターでも、ましてや妖怪でもない。

ゴツゴツとした岩のような体に、むき出す角たち。鋭い眼光はまっすぐにラフィスを捕らえていた。どうやら、初めから目的は自分らしい。

「はあぁぁッ!!」

ラフィスは、床を蹴って果敢にその怪物に挑みかかった。が・・・

カキンと、堅い皮膚はラフィスの斧を受け入れてはくれなかった。

「ちっ・・・。効かないのか・・・」

体勢を立て直して、ラフィスは再び斧の刃を奴に向ける。今度は急所でもある目玉を狙ってみたのだが、それですら傷一つつけられていない。



『あの方の邪魔はさせん・・・!神に選ばれし者・・・!!』



怪物は、うなるような太い声でラフィスにそういった。そして、ラフィスの身長ほどもある巨大な腕を振り下ろしてきた。

懸命に避けるラフィスだが、彼の武器である斧すら効かないのでは手のうちようがない・・・。部屋の隅に追い込まれて、ラフィスが絶体絶命の危機を感じたとき

パキ・・・パキキ・・・!!

怪物の足元がいきなり凍り始めたではないか。

『うぐぐ・・・!?』

なんとかもがく怪物だが、氷の早さは止まることなく一瞬にして頭までカチンコチンになってしまった。

訳が分からないラフィス。一体何が起きたというのか。



「まーったく。私が先に目をつけたんだから、横恋慕なんてやめてほしいわねー」



コツン、と足音を立てて氷付けの怪物の後ろから現れたのは・・・あのフェーンフィートだった。

「ラフィス!ほら!!」

彼女からラフィスに投げられたのは一本の斧。神から授けられたあの斧だ。

ラフィスはその斧を受け取り、氷付けの怪物に力いっぱい振り下ろした。



パキン



氷が砕ける音と共に、あんなに頑丈だったモンスターの体が弾け飛んだではないか。

そしてすうっとまるで何もいなかったようにそいつは跡形もなく消えうせた。

斧を持ち、フェーンフィートと交互に見つめた。

「これは一体・・・」

「それが、あなただけが操れる斧・・・。あなたは選ばれた人間なのよ。あなたにしかそれはできない。あなた、もう闇の力に支配された魔物に狙われているのよ」

フェーンフィートのはっきりとした声。

「ねぇ、世界を救う気、ない?」

彼女の顔が月の光で映し出された。





正直、世界を救うなんてどうでもよかった。神なんて言われても実感もない。何が何だかもこの女の説明が悪くてわからない。

ただもうオレには逃げる道なんてないということは理解できたし、この女に助けられて貸しを作ったのは癪だった。

そして何より、オレに世界を救えといったフェーンフィートの顔が一番つらそうに見えて



オレは、この使命を負うことを決めたんだ――。