すっかり東の空も暗くなってしまってから、リアスとティラミスは宿屋に向かっていた。

広場から大通りを通って。通りに並ぶ街頭と家の明かりだけが二人の目の前を照らしていた。

だが、その中の路地への一本の小道に一人の見覚えのあるシルエットが浮かび上がる。

彼は壁にもたれて静かに路地を見つめていた。ラースドだ。

「ラースド、こんなところでなにやってんの?」

ぼうっとしていたラースドにリアスが声をかけてひょいと路地を覗き込んで見る。

そこにいたのは、小さな女の子と茶色い犬。見たところから察するに捨て犬だろうか。まだヨタヨタと歩くのも覚束ない子犬。

女の子は平たいお皿を犬の前に差し出し、餌か水をやっているのだろう。

ラースドは視線をその光景からそらし、リアスたちの方へ目だけ向ける。

「別に何もしてねぇよ」

そっけない返事。そうしてまた、女の子の方へ目線を戻す。

リアスとしては、まさかラースドにそんな趣味が?とも思ったが、ラースドの眼差しは決して温かいものでも優しいものでもなく、どこか寂しげであった。

女の子は犬の頭をぎこちなく撫でてやっていた。その時、ぽつりとラースドから零れ出た一言。

「・・・リリア・・・」

無意識なのだろうか、本人の表情は変わらないまま。リアスとティラミスは顔を見合せて首をひねるばかりだ。

「リリアって?ラースドの大切な人?家族?」

ティラミスが、何気なく尋ねるとラースドがこちらを振りかえり言葉を失う。やはりさっきの一言は自覚がないようだ。

口を閉ざしたまま、何か考えていたようだがしだいにラースドの表情は緩んでいき、ふっと笑う。

「あぁ、まぁそんなトコだ」

目を細めて、過去の思い出を愛おしむように。だが、どこか切なげに。

(リリア。今もお前のことは片時も忘れたことはなかった・・・)

彼の脳裏に幼き日の記憶が蘇る―――・・・。

 

 

 

人口数十人ほどの山に囲まれた小さな村。そこでラースドは育った。

「リリアっ!」

幼いラースド―――といってももう10歳程度なのだが―――が走って向かう先は一匹の茶色の子犬だった。彼の片手には餌が盛られた器。リリアの昼ご飯を届けに来たのだ。

家を飛び出し、少し先の脇道へ。いつもどおり、リリアはそこでラースドが来るのを待っていた。

リリアは捨て犬だったのか、それとも迷い犬なのかはわからない。ただこんなに小さいのに親も近くにおらず独り怯えていたのだ。

そこでラースドがこの犬の面倒を見ることにしたのだ。彼はこの犬にリリアと名付けた。

ただ、何度も家で飼ってくれと母親に懇願したのだが母親は顔をしかめるだけだった。

ラースドにもその原因はわかっていた。

農業を財源とするこの村は、夏になって日照りが続いた。そのおかげで今年の農作物の出来は悪く、人間だけでも食べていくのがやっと。

母親が切りつめて家計を切り盛りしているのもわかっていた。

犬を飼えるほどの余裕がないのだ。

今もこうしてリリアにご飯をあげているのは内緒。ラースドの朝食、昼食、夕食を少しづつリリアに分け与えている。

リリアは彼の持ってきたご飯をぺろりと食べ終わると、ラースドに向かって嬉しそうにしっぽを振った。感謝の意を表しているのだろうか。

ラースドもそれに答えるようにリリアの頭をなでてやる。

嬉しそうに目を細めるリリア。

今日も夏の太陽の日差しは厳しかった。ラースドの額に汗がつたう。いくら日陰にいるリリアとて、暑いだろう。

「そうだ、リリア!!お前に家を作ってやるよ」

ラースドは、この場所にリリアの小屋を作ってやろうと決心した。そうすれば雨の日も屋根のある場所を探してうろうろしなくても済む。

彼は家のそばにある木材の破片が積まれてあるところに走った。ここはいらなくなった木材の屑が運ばれてくるところ。

屑といっても随分と立派で大きなものもあるし、犬小屋程度を作るなら十分だった。

のこぎりと、ハンマーを釘、そして木の板を持ってラースドはリリアのもとへと走った。

 

この村に子供は少なかった。ラースドの遊び相手になりそうな同年代の子供は数える程度。

そんな中、ラースドはリリアといつも一緒だった。水浴びをするときも一緒。お昼寝するときも一緒。両親から怒られて、愚痴を聞いてくれるのもリリアだった。

その度リリアはしっぽを振って喜んだり、ラースドを慰めるように頬を舐めたり。

一人で村の外なんかに遊びに行ってこっぴどく母親に怒られた日には、リリアと一緒に一晩を過ごしたものだった。

毛布を持ち出し、リリアの傍でうずくまると子犬は這い上がるようにしてラースドの膝の上に乗った。

じっと、ラースドを見つめる。子犬の円らな瞳は、かわいいだけではなく聡さを感じ取れた。

リリアはラースドの膝で丸くなると、そこで眠ることにしたらしい。

あどけない純粋なその子犬の行動にラースドの表情も和らぐ。

(あったかい・・・)

リリアからは土の匂いと太陽の匂いがした。膝の温かさは、ラースドの虚しい心までも温めるのに十分なものだった。ラースドはリリアに心の安らぎを求めていたのかもしれない。

そう、リリアはラースドにとっては親友であり、家族であったのだ。

 

「よし、リリア。出来たぞ!」

ラースドが額から流れる汗をぬぐって完成した犬小屋を満足そうに見た。

子供の出来だ。決していいものではないが、雨風は凌げるだろう。

中に毛布をひいてやると、リリアはゆっくりと小屋の中に入った。そして伏せる。居心地はいいらしい。

 

カーン カーン

夕刻を告げる鐘が村に響き渡る。店や、村の門が閉まる時刻だ。

「やべ。オレ、そろそろ帰らなきゃ!またあとで夕飯持ってくるからな!」

ラースドは小屋の中のリリアの頭をぽんぽんと撫でてやると、自分の家へ帰っていった。

 

 

そんな生活を続けていたある冬のこと。犬の成長とは早いものでリリアはもう立ち上がるとラースドの肩の高さまでくるほど大きく成長していた。

いつもどおりラースドは夕飯をお皿に移して、こっそりと家を抜け出そうとしたとき。

「ラースド、待ちなさい」

母親の厳しい声が背後から彼を呼び止めた。ぎくりと肩を揺らしたラースドだったが観念して振り返ると

「またあの犬のところに行くのね?」

眉の釣り上がった母親の表情。しかも「また」と言われる辺り、ラースドの行動はバレバレだったようだ。

ラースドは黙り込んで、器を持つ手に力をこめた。

母親の怒声はまだ続く。

「いつもは黙って見過ごしてきたけど、最近はもうこの時間は暗いし。最近は村の外に物騒なモンスターがウロウロしてるって村長が警告していたのよ。危ないから止めなさい」

「物騒なモンスターがいるならますますリリアが心配だ」

ラースドが母親を睨みつける。

「リリアを家に入れてあげて。オレの御飯少なくしてもいいから」

「犬を飼うっていうのはそんな単純な問題だけじゃないのよ。食費だけじゃない。いろいろ手間もかかるし、責任もあるの」

野良にエサをあげるだけの今の状況とは違うのよ、と母親は諭す。膝を折ってラースドと同じ目線で、先ほどとは違い優しい口調であった。

だがラースドの中ではだんだんと怒りが湧き上がってきた。リリアは賢い犬だ。

今までだってラースドを支えてきてくれた。リリアのことを何も知らない母親にそんなことを言われたくなかった。

湧き上がった怒りは、収まることなく母に向けられた。

「なんだよ!!リリアのこと知らないくせに勝手なこと言うな!!母さんなんか知らない!!」

ラースドは夜だということも忘れて叫び、逃げるように玄関を飛び出していった。

 

一目散にリリアの元へ走る。きっとお腹を空かせてまっているはずだ。

寒さも気にせず村の通りを走り、小道に入って犬小屋の前に座って待っているリリアを見つけた。

切れた息を整えながら、リリアに歩み寄る。リリアも飛び跳ねて喜んでくれた。

今までの沸々とした怒りは徐々に収まり、リリアの顔を見るとほっと安堵した。

力強くなったその体を受け止め、ラースドはエサの入った器をリリアの前に静かに置いた。

エサを頬張るリリアを見つめながら、ラースドはリリアの前に腰を下ろした。

「どうして大人ってお金のことばっかりなんだろう。お金があったらなんでもできるのかな?」

返事が返ってくるはずのない疑問をリリアに投げかける。リリアは相変わらず晩御飯に夢中だけど。

「オレがお金持ちの子だったら、リリアだってもっと幸せだったかもしれないのにな」

自嘲気味にふと笑うと、リリアは御飯を食べ終えたのだろう。こちらに近寄り、ぺろぺろと頬を舐めた。

先ほど与えたベーコンのにおいがする。

「・・・オレ、そろそろ帰らなきゃ。母さんにまた怒られちゃう」

ラースドはすっと立ち上がり、リリアにばいばいと手を振る。いつもはこうするとリリアは小屋の中に渋々入るのだが今日はなんだか様子が違った。

その瞳には、何か不穏な感覚がした。

「―――リリア・・・?」

ラースドが首をかしげると、次の瞬間。リリアは何かに威嚇するように背を屈めて唸り声をあげる。

リリアの見据える先を、彼が振り返ると背筋に冷たいものが通った。

村の通りにいる『何か』。

本能的に危険だと、ラースドの脳が反応していた。灯のない暗い村では姿ははっきりと見えないが、そう、あれはモンスターだと。

母親の言葉が脳裏に木霊する。

『最近物騒なモンスターがウロウロしている』

(そんな・・・村の門は閉まってるのに・・・!)

門を破壊してくるほどの、恐ろしいモンスターなのだろうか。

モンスターはラースド達の気配を察知し、鋭い眼光をこちらに向けた。どす、どすっと一歩一歩こちらに近づいてくる音がする。

ラースドの足が竦んだ。頭が真っ白になる。だが

(やらなきゃ、殺られる・・・・!)

家の塀にたてかけてある田畑用の鍬を掴むと、それを適当に構える。

手が震えていて、握るのだけでもやっとだった。

「やああぁああーーー!!」

ラースドが鍬を振り上げ、モンスターに突撃していく。

だが、子供のラースドの震えた手はあっという間にモンスターに弾き飛ばされてしまった。

「うわぁっ!!」

吹っ飛ばされてその場に倒れこむ。目の前には、身の毛もよだつ巨大な熊のような影。

モンスターの腕がラースドに振り下ろされた。

ぎゅっと固く目を閉じた。

(やばい・・・!)

死んだ。確実にそう思った。

 

だが、痛みはいつになってもなかった。むしろ、モンスターのうめき声が聞こえるではないか。

恐る恐る瞼を上げると、そこには

「リリア・・・!」

モンスターの喉笛に噛み付いて離れないリリアの姿。モンスターはリリアを引き離そうと、喉に食らいつく犬を払いのけようとするがそれでもリリアは離れなかった。

(いまだ!)

ラースドは先ほどの鍬の柄を再び握り、地面を蹴った。モンスターの脳天を目掛けて力任せに振り下ろす。

それが、見事にヒットした。

轟音のような悲鳴をあげて、モンスターはうつ伏せに地面に倒れこんだ。

しばらく唖然としていたラースドだったが、その動かなくなったモンスターを見てから

「やった・・・。助かった・・・!」

生きていることへの喜びをようやく感じ取った。

真っ黒なその体は毛に覆われ、肉の塊のような巨体は静かに倒れこんだまま。

リリアがモンスターへ噛み付いてくれたからだ。ラースドはモンスターの傍にいるリリアに駆け寄った。

「リリア!助かったよ!お前のおかげだ!!」

地面に伏せるリリアを抱き上げようとすると、リリアの体からぬるりとした感触が手に伝わった。

ラースドは己の手を見つめた。暗闇でもわかる。これは―――・・・。

「リリア・・・?」

土の上で、ぴくりとも動かない。さきほどとは異なる恐怖をラースドを襲った。

「リリア!!しっかりして、リリア!!」

その弱った体を抱き上げると、腹から背にかけてモンスターの爪に抉られていることに気がついた。

ぼとりと大量の血が地面を濡らし、シミになっていく。

「どうしてオレなんか助けたんだよ!!」

ラースドの涙が頬を伝い、リリアに落ちた。リリアはそれに、いつものようにラースドの手をぺろりと力なく舐めた。

リリアをここで死なせるわけにはいかない。

ラースドは自分の体ほどもあるリリアを抱えて、村の病院へと走った。自分の洋服に血がしみこんでいくのが恐ろしいほどに分かった。急がなくてはリリアが・・・。

 

「先生!!お願いだよ!!リリアを助けて!!」

病院に駆け込むと、ドアを力まかせに叩いて叫んだ。何事かと、恰幅のよい中年の先生が病院のドアを開けた。

「ラースド・・・これは一体・・・?」

傷だらけのラースド。そして血だらけになった犬。先生は目を丸くした。

「とにかく入りなさい。ラースド、手当てをしてあげよう」

「オレは大丈夫だから!リリアを早く助けて!!」

すっかり衰弱してしまった犬。冬の寒さも相まって、リリアの体はとても冷たくなっていた。

先生は一目リリアを見ると、静かに首を横に振った。

「ラースド・・・。悪いがここは動物病院じゃないんだ・・・。リリアは助けられない」

「なんでもいいんだ!!お願いだよ・・・!!何とかなるでしょ・・・!?」

嗚咽をもらしながら、ラースドは悲痛に訴えた。

先生はラースドを慰めるように肩をぽんと叩く。

「・・・ここにある薬はとても高価なんだ・・・。申し訳ないが犬のためには使えない。ただでさえ薬不足なんだ・・・。わかってくれ」

「なんだよ!!やっぱり皆お金なんだ!!皆リリアよりもお金が大事なんだ!!」

絶望と、憤りにラースドは叫んだ。リリアを抱きしめる腕に力をこめて、病院を飛び出した。

誰もオレを助けてくれない。

誰もリリアを助けてくれない。

誰も、家族を助けてくれない・・・。

 

ラースドが行き着いた先は、リリアの小屋。

小屋の前に座り込み、小屋の中にある毛布を引っ張り出してリリアを包んだ。

リリアの温かかった体は、とても冷たくなっている。触れるのが怖いほど。

外は凍えるほど寒い。それでもラースドはリリアを抱きしめて離さなかった。

リリアの円らだったあの瞳はもう、閉じられている。

「リリア、ごめん。ごめんな・・・」

震える声で、リリアの頭を撫でてやった。あんなにもふわふわだった毛を、今ではもう感じられない。

何度も何度も、頭を撫でてやると、最期の一瞬だけリリアの尻尾がぱさりとゆれた気がした。

 

 

あの夜の絶望の中。幼きラースドが感じ取ったこと。それは

誰もオレも助けてくれない。

誰もリリアを助けてくれない。

結局みんな金なんだ!

 

 

16歳の誕生日に、ラースドは村を出た。

金ですべてを買える。金でオレは幸せになってみせる。

そう思って。

 

 

 

 

 

「ラースド?どうしたの?」

ティラミスが、不意に黙り込んだラースドに問いかけた。

ラースドは我に返って、心配そうなティラミスとリアスの視線を感じ取った。

「別になんでもねぇよ」

ふいっと顔を逸らす。先ほどの少女と犬に視線を向ければ、立ち去る少女の後姿を寂しそうに見つめる子犬の背中があった。

「・・・リアスって犬に似てるよな」

ラースドがぽつりと呟くと、リアスは「え!?」と驚きの声を上げた。

「犬っぽいってこと?」

「なんか分かりやすいところとか」

「そうかなぁ?」

腑に落ちないのか、首をひねる。

「でもま、それがお前のいいところだよ」

ラースドはふっと表情を緩めた。どこか温かみを感じる笑みである。

(結局一番大切なものは金じゃ買えなかったな)

怒りで自分を見失っていたあの頃。絶望で心を無くしていたあの頃。

リアスたちと出会って、彼らの純粋な心に触れて、失いかけていた大切なものをまた見つけることができた気がする。

ラースドは思った。

リリアの最期のあの尻尾は、きっと偶然揺れたわけじゃない。オレへの最期の気持ちだったんだ。

金がなくても、あいつは幸せだったと信じたい―――・・・。

 

「よし、明日は早いんだし。お前らもさっさと帰るぞ!」

ラースドは踵を返して、ティラミスとリアスの背中をぽんと押した。宿屋に帰ろうと一歩を踏み出す。

突然の彼の切り替えしに「?」を浮かべるのはティラミスとリアス。

彼らの一歩後ろで、ラースドはあの茶色い子犬を一目振り返る。毛布の上でうずくまっているところだった。

(お前も幸せになれよ)

それから振り返らずに、ラースドはリアス達と一緒に宿屋への道のりを歩いていったのだった。