約束の花 前編
幼い7歳くらいの少年が、一人花の絨淡の上で、何やら熱心に草の上を見つめている。
他には誰もいない、蝶やテントウムシ、あとは色とりどりの花畑だけ。
青い空の下、少年のサラサラとした金髪が風に靡く。
「セレウス!」
そんな少年のそばに駆け寄るのは、同じくらいの年齢の無邪気な女の子だった。
癖のある栗毛色の髪の毛が柔らかく揺れた。
少女は少年のそばで膝をついて、手元を覗き込む。
「何してるの?」
少女が隣に来ると、少年は嬉しそうに微笑んだ。
「これを探してたんだよ」
少年が少女の目の前に、白い何かを突き出す。
少女がそれを理解するのに、少々時間がかかった。
「・・・シロツメクサ?」
少年の手にあるそれを、まじまじと見つめる。小さい、真白な華奢な花。
どこにでもあるような、そんな平凡な花。こんな花畑の中で、どうしてわざわざこんなものを?
「僕たち、ずっと一緒だよ。クラリッサ!」
シロツメクサを手渡しながら、少年は無邪気にそう言った。
なぜ急にこんなことになったのか、わからないが少女もその花を大事そうに受け取った。
「もちろんよ、セレウス」
ここは二人だけの秘密の場所。
幼いセレウスとクラリッサだけの遊び場だった。
シロツメクサの花言葉は―――約束。
セレウス・ヴァルドヴァース。
ヴァルドヴァース家はセントリバース王国という、この国一体を治める王の親族にあたる。
古くから、ヴァルドヴァース領を一任されており、城を構えて治めている。
ヴァルドヴァース領は、全体的に寒い地域だがきちんと整備された美しい街だった。
工業が栄えているが、努力のかいあって獣界の恩恵を直に受けているセントリバース領にも劣らないほどの美しさだ。
そこで、一人息子の後継者として育てられたのがセレウスだった。
一般教養、学力も身に着け周りでは類をみないほどの才能豊かな少年である。
それは幼いころからの稽古事の成果でもあるのだが。
両親に特に反抗することもない、温厚に育った。多少プライドの高さからか、強情なところもあるのだけれど。
そんなセレウスには、幼馴染の女の子がいた。
名前はクラリッサ。彼女と出会ったのは5歳のころであった。
クラリッサの母フィリスはヴァルドヴァースのメイドであり、若いころからこの城に仕えていた。
セレウスも幼いころからお世話になっている、しっかり者のメイドだ。
そんな彼女から、ヴァルドヴァースの領主――つまりセレウスの父親である――ヴィンスに突然の申し入れがあった。
「お暇を頂いてもよろしいでしょうか?」
暇、直訳すればメイドとしての仕事を解雇してくれということだ。信頼していたフィリアからの突然の辞職願にヴィンスも驚いた。
「どうしたんだ、急に」
落ち着いた声ではあったものの、目を見張っていた。大きなヴィンスの書斎に、沈黙が訪れた。
数秒して、フィリアがゆっくりと口を開く。
「先週母が亡くなり、幼い娘を一人家に置いて仕事を勤めることが心苦しく思いまして」
フィリアが、はっきりと言いきった。フィリアは夫をなくし、一人娘を母親に預けてここに勤務していたのだが
その母親も亡くなってしまった今、娘を置いてここに来ることはできないと感じたのだ。
ヴィリスは、じっとフィリアを見つめると「ふむ」と小さく声を漏らした。
そして何を考えているのか、立派な木製のデスクに目を落としたまま動かなくなってしまった。
フィリアが居た堪れない空気に、深々と礼をして書斎を後にしようと踵を返したとき
「ちょうどいい。セレウスの遊び相手にしてやってくれないか」
ヴィンスからは意外な言葉がかえってきたのだった。振り返るフィリア。ヴィンスはにこやかに言う。
「息子もいつも一人でいてかわいそうだからな。年齢も近いことだし、良い話相手になるだろう」
そうしてフィリアの一人娘、クラリッサは母親とともにこのヴァルドヴァースに赴くことになったのだ。
初めて母親に手を引かれてクラリッサが城に連れてこられたときは、それはもう好奇の目でまじまじとあたりを見回したものだった。
「お母さん、これはなに?」
廊下にある凡人には理解できないような、芸術的なオブジェを指さすクラリッサ。
「むやみに触れてはダメよ。おとなしくしていなさい」
静かに諭して、フィリアはヴィンスとセレウスの待つ広間に足早に向かった。
いつもは着ないような立派なワンピースに身を包むクラリッサとしてはとても歩きづらそうである。
広間では、いつもどおりヴィンスが堂々とした風格で椅子に腰をおろしておりその傍に礼儀正しくセレウスが控えていた。
セレウスのサラサラとした金の髪の毛。そして同じように輝く瞳。
まるでおとぎ話にでも出てくるかのような王子様の風格に、並大抵の少女ならば怯んでしまい目をみることもできないのだが、
母親のように気さくな気性なのだろう。クラリッサは物怖じすることもなく、にこりと彼に微笑みを向けた。
「あなたがセレウスね。私はクラリッサ、よろしく」
「こら、セレウス様とお呼びしなさい」
あまりに気さくな対応に、フィリアは顔色を変えてクラリッサの頭を下げさせたのだが
「僕はセレウス。よろしく、クラリッサ。友達に様はいらないよ」
セレウスの優しい言葉に、ほっと胸をなでおろしたのだった。
セレウスにとって、クラリッサは今まで見たこともない少女だった。とても素朴で素直な子である。
二人はすぐに打ち解けて、仲良くなった。クラリッサのセレウスへの態度は友達のような振舞だったが誰もそれを咎めはしなかった。
子供同士だと、周りも黙認していたのだ。それを二人とも当然だと思っていた。
「違うわ、セレウス。ちょうちょはこうやって捕まえるのよ」
ヴァルドヴァース城の裏手にある花畑。そこで二人は花の中で身をかがめていた。
この花畑は裏手にあるせいかほとんど人も近寄らず、月に数回庭師が手入れに来るくらいだ。
バラやらユリやら、いろんな花が植えられている庭園もあるのだが二人のお気に入りの場所は
タンポポやらレンゲなどの野花たちが密集している平凡なこの花畑だった。
そこでクラリッサが注目しているのは、ハルジオンの花びらにとまっている一匹の蝶。
むやみに捕まえようとするセレウスを制して、クラリッサは蝶に向きあう。
優しくそっと両の掌で包み包み込むとあっさりと蝶は手のひらの中に。感動するセレウス。
「クラリッサはなんでも知ってるね」
「そんなことないよ。セレウスのほうが賢いよ。」
クラリッサがそういうと、セレウスもはにかんだように笑った。
「それなら僕たち、お互いにないところを補い合えばいい。そしたら、もう怖いものなしだね」
自信満々に言い張るセレウスがおかしくて、クラリッサも思わず笑った。
花畑の中で、太陽の光が彼女の笑顔を照らす。セレウスはとても綺麗だと思った。
彼は社交界で、下級貴族の娘と会ったことはある。整えられた髪の毛に、透きとおるような白い肌。
豪華な衣装を身にまとった女の子たちは、立ちふるまいも子供のものとは思えなかった。
そんな女の子たちに比べたら、クラリッサはそんなにかわいいわけでもない。立ち回りも普通の少女である。
だが、そんなクラリッサの飾らない笑顔は、シャンデリアの下で光る少女達よりも輝いてみえた。
「セレウス、朝よ。起きて!!」
朝一番に、クラリッサがベッドに横たわるセレウスを起こしに行く。
カーテンをひらき、大きな窓から注ぎ込む朝日が眩しい。
セレウスが、寝ぼけ眼で起き上がる。一人用にしては大きいベッドでセレウスは隅にちょこんと腰かける。
「おはよう、クラリッサ」
「おはよう、セレウス。もう8時よ」
くすっとクラリッサが笑う。
14歳になったとき、彼女はヴァルドヴァースのメイドになることを志願した。
今更彼女をメイド扱いすることも難しく、彼としては反対したのだが彼女はそれをきかず、
初めて指定の濃紺のメイド服に着替えた彼女を見たときは違和感を感じていた。
今となってはもう見慣れたものだが。
彼女の手にはモップが持たれてい、今からここの掃除をしてくれるらしい。
幼いころから城にいるので、メイドまがいの仕事を手伝ったことはあるのだが本当に仕事をするとなると話は別だ。
クラリッサはドジばかりを踏んでいた。努力のかいあってか、多少なりとも今は成長したほうなのである。クラリッサは一生懸命働いてくれている。
「朝食なら食堂に用意してあるわ」
彼女が明るい声で言った。
セレウスが身なりを整え、部屋から出ていく時に楽しげにモップがけをするクラリッサの姿が目に入る。
7年前に比べて自分も彼女も随分と大人っぽくなった。
身長も伸びたし、手足も伸びた。
セレウスは、クラリッサから視線を外すとそのまま廊下を歩いて食堂に向かった。
こんな他愛もない幸せな日常がずっと続くと思っていた。
だが、それはだんだんと崩れていっていたのだ。
初めて、セレウスが「上級貴族」でありクラリッサが「平民」のメイドであることを自覚することになったのは彼女がメイドを始めてから1年がたったころだった。
「クラリッサ、今日の午後、時間あるかい?」
自分のためにお茶をいれてくれているクラリッサに、不意に尋ねた。クラリッサが、カップにお茶を入れながらきょとんとして彼をみる。
「ここしばらく忙しくて一緒に出かけたことなかっただろう?外に遊びに行こう」
ぼーっとしているクラリッサの手もとのポットを取り上げながら言った。カップには既に並々にお茶が注がれている。
「本当!?私、午後からお休みを貰ってるの!」
クラリッサは大袈裟なくらいに喜んでくれた。子供のようなはしゃぎようだ。
「じゃあ、お昼になったらセレウスの部屋に迎えに行くわね」
頬の緩んだクラリッサは、並々のお茶を彼に差し出した。カップの中のお茶は真っ黒だ。彼女のいれるお茶はいつも渋い。
セレウスはそれを一口、口に運んだ。
そして約束の昼となったのだが。問題はそこで生じた。
昼食の時間に、スケジュールを管理している使用人がいきなり彼を訪ねてきた。
小柄で白髪の男だ。せわしなくセレウスに近づくと、一息ついてから口を開いた。
「セレウス様。本日2時より隣町の貴族の親子がヴァルドヴァースへ立ち寄るとのことで、ご挨拶をしていただきます」
食事をしていたセレウスのフォークが止まる。
「今日の午後?突然の訪問だな」
皮肉っぽく彼がいった。
「僕は残念ながら先約が入ってるんだ」
「クラリッサとのお約束でしたら申し訳ありませんがお断りください。隣町には兼ねてからいろいろな支援をしてもらっています。
ここで挨拶なしで、お帰しするわけにはいきません」
ぴしゃりと厳しい口調で、使用人は言う。
セレウスにも、その重要性は十分にわかっていた。自分が先方を断ると問題は自分のみの問題ではなくヴァルドヴァースに関わるということも。
「セレウス様。気に病むことはありません。相手は貴族。クラリッサはただのメイドです。優先順位がどちらかなんて一目瞭然です」
使用人の当然のように言い放った言葉。セレウスは右手に持っていたフォークを静かに下ろした。
そのまま食事を中断し、黙ったまま席をたつ。
ただのメイド。ひどく彼の胸に突き刺さる言葉だった。改めて、自分とクラリッサの壁を目の当たりにしたような。
今日のところは仕方がない。クラリッサに諦めてもらうしかない。セレウスは心苦しいながらもそう決断した。
「ごめん、クラリッサ。今日は用事が入ってしまってダメになったんだ」
あの足でクラリッサのいる部屋へと向かい、申し訳なさそうにそう告げた。怒るだろうか、そう覚悟していた彼だったが予想と裏腹にクラリッサは
「そう、それなら仕方ないわね」
と、素直に許してくれた。安心するセレウス。
「あなたはこの国の跡取りですもんね。私のことなんか気にしなくてもいいわ」
優しい口調であったが、どこか突き放すような彼女の言葉。今までとは違う違和感を、セレウスはわずかに感じ取っていた。
「クラリッサ、また今度遊びに行こう。今度こそは一緒に」
セレウスはそう付け加えて、クラリッサのもとから立ち去った。
このころから、二人の間に溝が生まれ始めていたことはまだ気づいてもいなかった。